-みやぎ自殺対策シンポジウム2007に寄せて-
私の大事な娘への手紙と
私と同じ思いをしている
あなたへのメッセージ
(N・Yより)
今、あなたは天国でゆっくり眠れていますか。
天国で寂しい思いをしていませんか。
お母さん、毎日あなたと
お話ししているんだけれど
聞こえていますか。
毎日、毎日あなたのこと
考えているのがわかりますか。
毎日、毎日あなたのことを思い
涙を流しているのが見えますか。
あなたは、今でも
私の一番大事な宝です。
お母さん、あなたのこと
今でも大好きで大好きで
会いたくて会いたくて
たまらなくなる。たまらない毎日です。
あんなに大事で大好きなあなたを
守ってあげられなくて
ほんとうにごめんね。ごめんなさい。
守ってやれなかった自分が許せなくて
ほんとうに苦しい、苦しいよ。
自分が許せなくて
辛くて、くやしくてどうしていいか
わからない
そして、とてつもなく寂しいよ。
どこに行くにもあなたと一緒。
旅行もいっぱい一緒に行ったね。
カラオケにもよくいったよね。
買い物にもよくつきあわされたね。
そして、おいしいもの食べて帰ったよね。
ほんとうに仲良しで、私達の
大切な大切な宝でした。
思い出が止まらなくなってしまう。
いっぱい、いっぱい泣けてきてしまう。
涙で前が見えません。
あなたはとってもやさしいから
心配かけまいとしたけれど。
もっともっとわがまま言って
心配かけてほしかった。
亡くなってしまったけれど
あなたは、やっぱり私の大事な宝です。
あなたのお母さんで良かったよ。
愛しているよ、大好きだよ。
この気持ちは絶対変わることはない。
あなたは今でも心の中で生きています。
私の心の中で行き続けています。
一生私の心の中から消えることはない。
それは、あなたは私の宝だから。
愛しているよ、大好きだよ。
私は、私の宝の為に強く生きる
生きていたい。
命ある限り、あなたの供養をする為に
親としてあなたにしてあげられることといったら、
供養してあげることぐらいしかないから
ゆっくり休めるように
一生懸命供養していきたい。
あなたの為に長生きしたいと思う。
あなたを失ってどう生きていって
いいかわからなくなってしまった時
藍の会を知り私と同じ思いをしている人がたくさんいることを
知りました。
私達の思いは、とてつもなく
苦しいものでした。
あまりにも大きくて
どうやっても、びくとも動かない
岩のようでした。
出口のないトンネルのようでした。
もがいても、もがいても
前が見えない、苦しいものでした。
どうしてよいかわからない
山、全体が岩でできてきて
それを動かそうとするようなものでした。
あんまりにも巨大で
押してもダメ、引いてもダメで
びくともしない
もがいても、もがいても出口がない
トンネルのようなもの。
苦しくて、寂しくて
押しつぶされそうな毎日でした。
でも、皆に会うことができて
そのことが普通のことだと知りました。
大事な人を失った時、
皆、同じ気持ちになるということを知りました。
当たり前のことなのだと
教えてもらいました。
この苦しみは、私だけかと
思っていたことが、スーととれていきました。
みんな同じことで
苦しんだり、悩んでいたことを
知りました。
私には、大きなことでした。
皆、同じ思いをして
同じ悩みを持っているということを知ることは、
私を孤独から救ってくれました。
こういう思いを皆するんだと
知るだけでとても”楽”になりました。
”生きていこう”という
気持ちをもつことができました。
みんなで生きていきたい
”大事な人の為に”
大事だからこそ
いっぱい、いっぱい
だれよりもたくさん
供養してあげたい
生きよう
大事な人の為に
聞こえますか
(N・Yより)
お母さんの声が
聞こえてますか。
お父さんと
話せていますか。
天国で楽しく
できていますか。
生きていたときは、
時々しか、考えなくてもよかったのに
今は、寝ている時以外は、
いつもあなたの事ばかり考えています。
親はね、亡くなってからも
苦しんでいないか
ゆっくり休めているか
そんなことばかり考えるものです。
生きていた時も大事だったけれど
亡くなったら、もっともっと大事になった。
おかしいと思うかもしれないけれど
亡くなっても、親は親なのです。
今の私達には
供養することしかできないけれど
長生きをして
一生懸命、供養してあげたい
あなたのいないこの世で
生きていくことは
とても、とっても辛いけれど
あなたが天国で、
安らかにやすめるように、
お母さん、頑張って供養するから
私の心の中のあなたと
生きていくから、
頑張って生きていくからね、
天国からちゃんと見ていてほしい。
見守ってほしい。
お母さん、あなたと一緒に生きていく。
生きて供養をしてあげることしか
できないけれど
あなたの大好きなお母さんより
愛しているよ、大・大好きだよ、私の宝。
生きていこう
(N・Yより)
大事な人を失った
悲しみは
とてつもなく苦しく
とてつもなく寂しく
生きる気力を失ってしまう。
何をする気もおきなくて
毎日、毎日泣いて
それでも同じように
時間だけは、流れていって
自分のまわりだけは止まったままで
息をしていることさえも忘れて
しまうような毎日。
これが一生続くような気がした。
でも、不思議と仏壇に供える
ごはんの用意だけはできた。
苦しくて苦しくて、
でも、少しずつ大事な人の為に
生きていかなくてはと思う時がくる。
苦しいけれど
供養してあげるために
生きていかなければいけない
と思う時が必ずきます。
それまで、苦しいけれど頑張ろうよ。
乗り越えていこう。
生きていこう。
一緒に生きていこう。
一人じゃ、とっても大変だけど
みんなと生きていけば
少し楽になるよ。
生きていこう。
一緒に生きていこう。
大好き
(N・Yより)
大好き、愛しているよ。
大・大好き愛しているよ。
だからこそ苦しかった
あなたを失ってから
ぬけがらになってしまった。
でも、今はあなたの為に
生きていく。
今度、会う時に、
よし、よしと頭をなでてほしいから、
「お母さん、頑張って
生きてきたね」と言って
抱きしめてほしいから
私は、あなたの為に生きていく。
苦しいのはみんな同じだと
伝えていきたい。
お母さんのこれからの
生き方を見ていてほしい
大好き・大・大好き、愛しているよ
海に果つ(N・I)
それは、二年前の初秋の頃のことである。その日、私は町内の婦人部の交通安全のお手伝いをする日になっていた。が、私は三ヶ月前に割り振り表を渡されたその日から何故かその当番に気が重くてしかたがなかった。今にして思えば、それは後に起こる出来事を私の中に住む?何者かが予知をしていたに違いない。
ともあれ、その当日こども達の登校時間帯に合わせて交通安全の小旗を手に私は交差点の端に立った。信号が青に変わると小さな児童を機敏に渡らせたり、足のわるいお年寄りには手を貸したり四方八方に神経を張りめぐらせ寸時も気の抜けない作業である。しかし、いったん一斉に車が動き出すと、またもや、昨夜無断外泊をした息子のことが妙に気になりはじめた。
普通、世間一般の常識からみれば三十歳をすぎた男が例え一晩や二晩戻ろうと戻らまいと、そうまで心配するか。と言われそうだが私が六十歳を越える頃からいつまでも夕食がかたづかないことを気の毒と思ったのか、二人の息子たちは遊びでも仕事でも遅くなるときは必ずや連絡をしてくるのが通例になっていた。おおげさのようだが、これはやはり我が家の緊急事態であったのだ。
折しもちょうどその頃、やれクラクションを鳴らしたとか、追い越しをしたとかささいなことに言いがかりを付けられ、何処までも追いかけられて人気のない所で暴行をうける事件が多発してもいた。私は前夜から秘かに何度そんな場面を想像して心を凍らせたことだろう。交差点を夥しく行き交う車輌の中に息子の乗る茶とベージュのランドクルーザーの姿を一刻も早く見いだして私はひたすら安堵したかった。よもや、彼が海ぞこ深く永遠にもの言わぬ冷たい骸となって横たわっていようとは知る由もなく・・・・
彼は殊のほか海がすきであった。山の陰鬱さを嫌い海を好んだ。星座までが魚座であった。まるで海の申し子のように何時間も船に揺られて家族中が船酔いで苦しんでも彼だけが船酔いをすることもなくケロッとしていた。彼の「死因」には、医学的にも生活的にも断定を下すには多くの疑問が残されている。だが、ただひとつはっきりと言えることは、彼がもうこの世の何処にも存在しないことは事実なのだ。彼が最期のとき、その薄れていく意識のもとにたゆたう波に抱かれて、せめて平穏でやすらかに逝ったと思いたい・・・・
あの日彼が出掛ける時、庭にまるでコスモスとは思えないような大輪の黄色の花が風に揺れていた。彼は車のキーを持った手で軽く花を撫でて門を出て行った。なにもかもあの時と同じなのに、彼だけがいない。そしてまた二度目の秋を迎える。
母の短歌 夢幻・無限
○ 「お母さん俺が嫌いになったのか」「大好きだから苦しんでるよ」
○ 今度こそいい世の中に生まれてよ その為母も力尽くすよ
○ 又夢を見たら今度はしっかりと 抱(いだ)き合おうね遠慮しないで
○ 少年の自殺が増えているという 日本支える土台グラグラ
○ 底力お前の為に出さなくちゃ 母の強さを見せてやらなきゃ
○ 余力など何も無いのに 「頑張る」と言った言葉が最後となった
○ 苦しんでいる時は眼中に無いだろう でも母親は子を想ってる
○ 遺された人はどうするべきなのか 私は問いを突きつけられる
○ 終身刑を言い渡されたそう思う 死ぬまでこの子のために服役
○ 格子無き牢獄なのだと思えばいい 我が人生は償いなのだ
○ 苦しみは声にしないと貯まるから 皆「苦しい」と言っていいのだ
○ 役に立つ為に生まれて来たんだよ 自分の価値を何故に見限る
○ 死ぬなんて思いも寄らぬ事だから 子の心親知らずなんだね
○ 心から離れないのは責任が 我に有るかという重さだ
○ 戦争が無くていいなと思ったが 死は日常と隣り合わせで
○ 命だけでも助かってそう願う 母の祈りは無力なものだ
○ なんとなく頭の中は空の雲 想念浮かびやがて消え行く
○ 人の傷癒す歌を詠む者となり 誇りを持って生きて行きたい
ゆっくりあせらずあるがままに(三上なつよ)
”自分の人生から逃げます
生きていられるまで生きてみます
本当にすみません
お世話になりました”
この数行のメモを残し、彼は家を出た
そして4ヵ月後、彼は遺体となって帰って来た
”何があったの” ”なぜ” ”どうして” ”なんでなの”
”当時の彼になんのトラブルがあったのか”
”生きていられるまで生きてみます”
この大事なメッセージを愚かな母は自殺と云う事に
まったく結び付ける事が出来なかった
普通の親なら結びつけ、必死で捜し、そしてくい止めたはず
なのに私は、”やり直したいの!! 彼ならやり直すだろう”と
思ってしまい、家出された事に動揺ばかりしていた
そして 彼の家出は周りに隠したのである
彼は自分の心の叫びを、このメッセージにこめ
”止めてよ、捜してよ”と訴えていたのに!!
ごめんね 今更だけどごめんね 本当に今更なんだよね
お母さんまったく分からなかった 今も分からない
なぜ家出なのか なぜ自殺なのか 何があったのか
私は心配りがあまりなかったのだろうか
彼に対して私はあまりよい母ではなかったのだろうか
取り返しの出来ない決断をさせてしまったお母さんを
許してください あやまりの言葉届いているのだろうか
”お母さん 温泉の本なにかない”
”温泉の本あるよ どうして”
”今度の泊りの旅行 俺幹事だからどこか探さないと”
”あーそうか 二、三冊持って行ったら”
”これ一冊でいいよ 借りていい”
”どうぞ 借り賃たかいけど”
”えー!!今から打ち合わせだから借りるね”
”飲んだら代行か友達の所へでも泊まるんだよ”
”分かってる 行って来るね”
”楽しんで来なさい 気を付けてね”
”ラジャー”と云って顔の所へ手をやり
敬礼をして笑いながら家を出て行った
2005年6月5日 PM6時半頃の事である
これが彼との最后になるとは夢想だにしなかった
いつもの調子で いつもの声 いつもの態度
全てがいつもと同じ この日は帰らず
飲んだ時は泊まる事が多いから これもいつもと同じ
次の日会社からの電話で出勤していない事を知り
彼の部屋を見るとベッドにメモがあり
彼の家出を知る事になる
私はパニックだった 何も手が付かない
彼の友人達に電話した 彼にも日に何十回と電話をする
銀行のカードは持って行った 通帳はあったから
やり直しが出来るようにお金を入れておいた
通帳の残高を調べる事で元気である事を知りたかった
2005年10月30日PM9時すぎ
警察から遺体確認をしてほしいとの電話が入る
何を云っているのか 私には理解できなかった
なぜなら10月20日頃彼と面接をし
採用が決まったと電話がある会社から入り、
落ち着いたら逢いに行こうと話をしていたばかりだった
車は彼のだと云う ちがうのかもしれないが
警察へ行く事にした だがその遺体はまちがいなく彼であった
車の中での排気ガス自殺 死亡推定10月20日頃との事
彼の性格を表わすように 車はきれいにスキ間なく
目張りがしてあったと云う
10月20日?あの仕事の電話はなんだったの!!
メモしておいた用紙は探してもみつからない 今も思い出せない
私には彼の死を受け入れる事は不可能だった
”死んだ”と云う意味すらまったく分からない まして”自殺”ってなんなのか
ただ連れ戻さなければなんとしても連れ戻さなければ
どうすればいいのか 彼と同じになればいい
あたり前のようにそう思った そうする事が当然であり
今、私が出来るただひとつの道なのだと
そう思う頭のかたすみで 暗闇から笑いかける何かがいた
”あなたが殺したのに!!”と云う
”そうなのだろうか” ”そうかもしれない” ”そうだろう”
私はその言葉をうけ入れた
私は家出した彼を死にものぐるいで捜していない
4ヶ月もあったのにである
その上 周りに家出の事を隠していた
そう私は彼を見殺しにした事になる
そんな私が彼を連れ戻してあげる事が出来るのか
彼の世話を誰がするのか 私しかいないのに
一人にはさせられない そう思った時
私の体から心だけが離れ、体の動きを心が
無視しているような気がしてならない
遺体確認後の数時間で私の心が止まっていた気がする
そしてそれからの記憶は今でも大部分が曖昧なものとなる
誰かの葬儀をしている 誰のなのかは分からない
けどあたり前のように行く
正面にはなぜ彼の写真があるのかが分からない
知った顔が来るから対応している
悲しさがない 淋しさがない 涙がでない
感情がまったくない 心がじっとして動かない
そして なぜ私が生きているのか分からない
そう自分の意志に反して生きているのだ
睡眠だけ充分にあたえられて生きているのである
そんな自分がとても許せない
”私は人の体をもった悪魔なのだ
だから子供が自殺しても平然と生きている
なのに周りは私をとがめない おこらない なぜなの!!”
何ヶ月も流されるままに生きている
彼の世話を誰がしているのだろうと思いながら生きる
彼の帰りを待ちながら生きる
動く彼をみなくなってからどの位過ぎたのだろうかと思いながら
生きる事が苦しい 生きている事がつらい
”もう限界だよ”と彼にいいつつ新聞を手にした日
「いのちの電話」と云う文字が大きく、とても大きくとびこんで来た
なんなのか分からないけど”ここに電話しなければ”と
無意識に電話をしたことを覚えている
”もう生きていけないかもしれない”そう告げた気がする
担当の田中さんは優しくさりげなく話をきいてくれた
そのあとも電話や手紙を何回かいただき
その中に”自死遺族の会わかちあいの会ができるから
もう少しまてる”と問いかけてくれた
私はすんでの所で”いのちの電話の田中さん”に助けられたのです
それでも生きてる事が苦しかった
その後、第一回目のわかちあいの会があった事
その会の代表の田中さんの電話番号を教えていただき
電話を入れた それでも私は、生きている自分が許せなかった
”もう駄目 明日あなたの所へ行くね”と思っていた所に
”藍の会の田中さん”から手紙が届いた
お二人は私の心を知っているのだろうかと思えるタイミングで
電話や手紙が届くのです
その手紙には
”子供は一生懸命生きた
33回忌 50回のとむらいあげまで
生きて供養してあげましょう
子供を思い出してあげましょうね
親しか子供を思い出してあげられるのはいないから”
と云う言葉が書いてあった
そうだ私は親だった 母親だったんだとしみじみ思った
同じように息子さんをなくしているのに
あたたかい手紙をくれた田中さんに自然と頭を下げていた
”お会いしていないけど 本当にありがとうございました”と
私は何をしているのだろう
彼のその死を受け止めてあげなければ
彼は死んでも”淋しいよ 哀しいよ 分かってよ”と
想い続けなければならない
その想いをしっかりだいてあげなければ
分かってあげようとしなければ申し訳ないよね
トム君 幼い時の呼名で話そう
トム君はとてもかわいい赤ちゃんだった
子供のいない私の友人は”私の子供にする”と云って
離さなかった 誰からもかわいがってもらったよね
泣き虫ででも本があるとごきげんで
夢が沢山あってなりたいものが次から次へと変わる
自分に自信がありすぎて”自信過剰だよ”と注意したっけね
大人になってからはお母さんのわがままに
”しょうがないね”と付き合ってくれて
いつも穏やかで優しいトム君にあまえてばかりいた
お母さんにとっては出来すぎの息子だったよ ありがとうね
トム君は31年間本当に一生懸命生きたよね
でもお母さんは悔しい 悔しくてしょうがない
人間だもの途中失敗もあったけど全部クリアして来たじゃない
みんな失敗してはクリアのくりかえし 生きてる人みんなそうなんだよ
ただ時には誰かの助けも必要なクリアの仕方もあったんだよね
でもトム君は誰の助けも借りなかった
誰にでもいい”助けて”と声に出してほしかった
そしてトム君が必死で訴えていた心を見つめる事が
お母さんは出来なかった ごめんね ほんとうにごめんね
人を批判する事もなく 良い所ばかりみせて
悪い所は全部自分の胸の内にしまいこんでしまった
トム君そんなの格好いい事じゃないよ
心配かけない事が親孝行じゃないよ
心配させる事だって親孝行なんだからね
トム君は最后の4ヶ月間大きな心配をさせて
お母さんは身動き出来なくて 対応しきれなかった
こんなのないよ こんなのやだよ
31年間トム君は本当に一生懸命生きた そして 自死した
このふたつの事柄を同じ人間がしたとは未だに思えない
思えないけど事実 認めたくない・・・けど受け止めなければ
トム君、お母さんは悔しい 辛いよ
お母さんが死ぬ時まで”お母さん”とトム君に呼んでほしかった
そして”お帰り おつかれさん”と云い続けたかった
”ありがとう”って云いたかった
今私は藍の会に参加している
”自死遺族わかちあいのつどい”でスタッフも全員が
遺族の人々である 初めての参加は不安が沢山あって
私はずっと家から出る事ができなかったから
まず家を出る事にとても勇気が必要だった
初めて会う人々と話ができるだろうか とか
さまざまな事を考えた ささえだったのは
”全員が自死遺族の人”それのみであった
会場にようやく着き、おそるおそる入る
そこにはスーと入れた事が不思議であり驚きだった
人の話が聞ける その人の哀しみが手に取るように分かる
そして私は迷いもなく息子の話が出来たのです
哀しさが 淋しさが 心いっぱいに溢れたのです
”ああ、私は生きていてもいいんだ”・・・と涙が流れたのです
体と心が一致し、自分の想念から解き放されたのです
お仕着せでなくあるがままに 分かったつもりでなく分かっているから
共感でき痛みが分かる 言葉では表わす事のできない
不思議な会でした そして次の日の夜 私は夢の中で
息子と会えたのです それまでどんなに願っても夢は真黒のまま
息子は夢でさえも私を拒否しているのかと思っていたのに
初めて夢で会えたのです
いつものように穏やかに 私と土手の上をあるきながら
話をしているのです 嬉しかった 醒めたくなかった
今でもその夢は私の記憶の中にしっかりと生きています
私は会へ出るたびに元気になれたのです
そして会へ出る事を一番喜んでくれるのが家族です
それまでの私は家族がいたことさえ気付かずに
どっぷりと自分の想念の中で生きていたのですから
家族の私への気遣いは計り知れないものだったのでしょう
そして家族もまた深い悲しみの中にいる事を知ったのです
一人ではなかなか自分の想いから脱け出せなかったし
家族といえども想いはちがう
分かってもらえないと思うと家族にさえ心を閉ざしてしまう
会の人々が”それでも頑張っている”姿を見る事によって
自分も少しでも頑張ろうと思える
会へ参加する前は自分の事しか考えていなかった
なのに自分を癒す事さえ許せなかった
参加を重ねるごとにまず自分を癒す事からと思えるようになった
自分を癒さなかったら誰の事も考えられないし周りが見えない
癒す事によって自分の心が少しずつ整理出来る様になり
整理する事によって息子の事も考えられるようになり
その想いを分かりたいと思う このまま自分を癒さず
自死した息子の事ばかり考えていたら
自分の想念の中に心をとじこめ 家族や息子の事さえも
心から追い出しまったく逃げの中に居続けていたかも
しれない 果てに同じ苦しみ哀しみを周りにあたえてしまって
いたかもしれない そう思うと自分を癒す事は悪い事ではなく
一歩前に進むためには必要な事なのだろうと思う
自分を許す事もまた必要なのだろう
私は偶然にも二人の田中さんに助けられたのです
”いのちの電話”の田中さん ”藍の会”の田中さん
お二人には心から感謝しております 本当にありがとうございました
それから藍の会の皆さんにも沢山の勇気をもらい助けていただきました
本当にありがとうございます
私の命は助けられて今も元気にしています
自分だけの命ではない事を心にとめて大事にしながら
生きていこうと思います
私がしなければならない事 それは息子の自死と向き合うことなのです
私は大きな大きな取り返す事の出来ない失敗をしてしまった
クリアはできないけど 誰かの手を借りてのりこえようとしています
これが生きると云う事なのかもしれません
私には彼が自死であった事を隠す事ができないのです
なぜなら家出をしていた4ヶ月間を隠していたのですから
どの位過ぎた頃だろうか
”車を何度か見かけたけど 家出していた事知らなかったから
伝えなかった”と云われたのです
事実を周りに教えていたなら彼を救えたのにと
その後悔で頭の中がいっぱいになった
家出を隠す事が帰って来た時の彼のためと信じていたけど
本当は自分が世間体を気にしていた事に気が付いた
彼はきっと救いを求めていただろうに
母は死にものぐるいで捜してくれると信じていただろうに
そう考えると私は救える命をむざむざと見殺した事になるのです
彼から”自死した事も隠すの!!”と問われているような気がして
ならないのです 隠さない事で家族にいろいろな事が
あるかもしれない それでも家族は了解してくれたのです
それは”救えなかった ごめんな”の気持ちがあるからだとー。
今年の二月頃、おとなりさんが
”水道の水もれで困ったやー
あんちゃんが生きていれば見てもらったのになア
なんで死んだんだやー”といいます
彼は水道設備の会社に行っていたので 近所の些細な
上下水道の故障は近所のよしみで直していたのです
おとなりさんのこの言葉はとてもあたたかく”そうだよね”と
言いつつ涙が止まりませんでした
彼の死をあたたかく認めてくれたようで 嬉しかったのです
周りの人達は一様にあたたかく彼の自死を認めている感じがします
ただ身内は冷たい
これはしようがないのでしょう。。。。。。か?
身内とはなんなのか 今は他人以上の他人と思えてなりません
自死であった事を病死や事故死のように言えたら
偏見の目がなかったら どんなに楽か
身内からも他人からも偏見の目の中で生きる事は苦しい
自分の中にも自死に対しての偏見はないのだろうか
偏見は自死だけにあるのだろうか
さまざまな事が頭の中をかけめぐる
心は日々揺れ動き続けます 些細な事に傷付き
それがどの位続くのか分からない
私の残された日々はその揺れに漂いながら終わるのかもしれない
それでもいい 息子の事を忘れる事はできないし
息子のことを話したい あなたの生きた31年間は決して
無駄ではなかったと伝えたい
もう誰にも自死などしてほしくないのです
生きて生きぬいて どんな事をしても生きてほしいのです
一人で苦しまないで 苦しい胸の内誰かに言って
そして生きぬいてほしいのです
これから彼のために何ができるのか分からないけど
周りの人が私のようにはなりたくないと思ってくれたら
それでいいのです もしかしたらそれも自殺予防に
なるかもしれないと思うから
ゆっくり あせらず あるがままに生きて行こうと思います
健一へ(田中幸子)
あなたが11月16日にこの世からいなくなって4ヶ月が過ぎました。
金曜日にあのまヽ多賀城の官舎にいてやればよかったとこうかいしています。
Yにやさしい言葉をかけて甘やかしすぎてしまったように思います。
今だに現実でないような でも現実で・・・
あなたにとって私はいい母ではなかったと悔やんでいます。
でもいっぱいいっぱい愛しています。今までも今もこれからも・・・
何を思ってごはんも食べずに死んでいったのかせつなく苦しいです。
大事な大事なあなたを死なせてしまった母親として失格です。
ごめんなさい。
あなたが死ぬのではと頭がよぎったのに・・・後悔しています。
Yとの結婚も反対していればよかったと思っています。
お金がなくて暮らしたけど・・・
大学にいれてあげればよかったね。違う人生だったのにね。
本当にごめんね、お兄ちゃん。
もっともっと話を聞いてあげればよかったね。
死ぬ程悩んで苦しんでいたことをわかっていなかった私は
母親として失格です。自分なりにあなたにしてあげていたつもりでしたが、
何んにもしていなかったように思います。
でも私はくやしい・・・・・・
生きていてほしかった。どんな事をしても生きていてほしかった。
ただ生きていてくれるだけでよかったのに・・・
どうしてどうして・・・あなたの苦しみ死ぬ程の苦しみが私には
何が原因で何があって・・・何がそこまで・・・と・・・
わからない事ばかりです。
仕事は休んでいたし、やめたらやめてもよかったのに・・・
官舎ではなく住まいを移したらよかったとこれも後悔しています。
病院も大きな所にやればよかったね。
一人にしては絶対駄目と思っていたのにあなたは大丈夫
私の子供は死なないと軽く考えていた私は本当に駄目な母です。
こんなにつらく苦しいことがあるのだと・・・そして私のそんな苦しみよりも
あなたはもっともっと苦しかったのだと思うと
つらいよ、お兄ちゃん・・・
助けてあげられなくてごめんなさい本当にごめんなさい本当に・・・
冷たかった・・・・・・顔の色が変わっていくのを見ることができなかった・・・
あの世があるとしたらお兄ちゃんはおだやかにいつもおだやかに
暮らしているのでしょうか?
私が死ぬときは迎えにきてくれるのでしょうか?
おばあちゃんはいますか?
今はただ思い出しては泣いての日々です。小さい頃のこと・・・成人してからの事。
一緒にあそびに行ったこと、家に泊まったときのこと、あなたの家で
一緒に夕食を食べたこと・・・ゲームをしていたあなた・・・
病気が進んでいた事をわかっていたつもりでわかっていなかったこと・・・
悔やんでも悔やんでもあれもこれもあれもと今更思ってもしょうがないと
あなたに云われそうですが。
たまにお手紙しようかと思っています。
最初はくるっているようでしたが、今はなんとか頑張って生きています。
ボランティアをしようと考えたり
子供を亡くした親の会を仙台でも発足させるきっかけになるように
努力するつもりでいます。
そして、うつという病気をもっと真正面からとり組んでもらいたいことも
訴えながら、少しづつほんの少しづつだけど頑張って余生を送りたいと思っているよ。
少しは人のために役にたって年をとるようにするよ、お兄ちゃんのためにも・・・ね。
大事なお兄ちゃんへ 母より
又、ね。
三月三十一日 ゆき
夕方五時過ぎです。
今日は四月二日です(田中幸子)
今日は四月二日です。この頃あなたが亡くなってからの日々を少し冷静に・・・少しですが見つめられています。
何があったのか・・・現実なのか 夢なのか・・・葬儀の準備がすすみ、その中で流されていく自分・・・肉体が焼かれてしまうこともまるで夢のように・・・現実離れしていたような・・・次の日から薬を飲み胸の痛みを押えての毎日、これからどうやってこの胸の苦しみをかかえて生きていこうか・・・と
その後YとYの両親からの言葉の暴力としか云えない言葉をあびせられ・・・あなたが亡くなってどん底の私に追いうちをかけて・・・狂ったようになり薬でもねむれなく・・・あなたをののしったりしたね。ごめんね。あなたは悪くないのに・・・あなたは苦しみ、生きている私があなたを救えなかったのにあなたは死が救いだと思う程苦しんだのに・・・私は親としてなさけなくあなたを助けられるのは私だったのに・・・Yに遠慮してあなたを助けられなかった事後悔だらけです。本当にごめんね。
あの時私が待っていたら・・・とか、Yに必ず帰るようにと嫌われてもいいから言えばよかったと今更思っても取り返しのつかない事ですが私を許してね。
バカな母親でした。今、あれから毎日あなたに手を合わせても、あなたはいません。声も聞こえないし・・・毎日泣いては思い出してもあなたは帰ってこないのです・・・
私は人生最大の失敗を後悔です。
何より大切なあなたの事をわかっていなかったんだよね。
わかっていたつもりだった・・・のに・・・Yに遠慮ばかりしていたのは・・・親としてあなたの親としてだめな親だったと思います。世界のどんなことからも守り生きていけるようにするのが私の役目だったのに・・・あなたの結婚を機に・・・忘れていた・・・というか・・・してはいけないように考えていた事が・・・後悔です。ごめんねしか云えない母を許して下さい。
小さい頃からの事がたくさん浮かんでは泣いています。やはりつらいです。子供を失うことがこんなにつらく苦しいなんてあなたは皆んなと会っていますか?
あれも食べさせたかったとか、今更です・・・本当に後悔です。人生観が変わりましたよ。人を見る目も・・
幼い子を見たりしてもつらいです。あなたの年頃の人をみるのもつらいし、幸せそうな家族もつらい・・・警察官をみるのも多賀城と聞いたり鳴子も何もかも胸が痛くなる事ばかりです。まだ・・・
この世に思いはなくあの世に行きたかったのでしょうか?母として申し訳なく思います。息子にそんな思いをさせていた事・・・申し訳ないです。
絶対に永久にとり返しのつかない出来事に直面してそれでも生きていく努力をしている私・・・いったい人とは人間とは親とは・・なんなのでしょうね。
健一ではなく健にすればよかったとか・・・私が耐えもっと自分を殺しても頑張って私立の大学にあなたを入れればよかったとか・・・
結婚を進めるような話しをしなければよかったとか・・・もっとたづねて行けばよかったとか・・・様々な思いが頭をよぎります。
駄目な母でしたね。
でも哀しいです。あなたと会えないことが・・・この世で・・・
カァちゃんより
四月二日
雨のちくもり
大切な健一へ
息子への手紙を書いてから(田中幸子)
息子への手紙を書いてから初めて読み返してみました。
メールも”送信エラー”で戻ってくるのがわかりながら時々送信しています。
電話番号もアドレスも消すことが出来ずにそのままにして家族のグループに登録しています。
2005年11月16日
警察官だった息子 34才の人生を自らの手で幕を降ろした日、命日です。
納棺の日は私たち夫婦の35回目の結婚記念日でした。
息子は結婚もして三才半の娘もいて幸せだとばかり思っていました。
宮城県多賀城市で飲酒運転によるRV車事故、高校生の列につっ込み三人が犠牲になりました。
その事故の事故処理担当係長が息子でした。赴任してすぐの事です。
休みがなくなり大好きな車にのる時間もなくなり、家族団らんもなくなり・・・
心を病んでいったようでした。
そして相談して自宅療養になったのが10月でした。
夜の11時すぎ---電話
死んだ!! と主人
すぐ次男が起きて来て 死んだ!! うそ!! 言葉になりませんでした。
私は 死んだ!? 誰? 死? どういうこと?
お兄ちゃんが? 死んだ? って何?
そのくり返しが頭に浮かび体がフワフワ浮いているようでした。
彼のメガネが涙でまっ白でした。
彼はどれ程の涙を流したのでしょう。
どんなに泣いて泣いて悲しみの絶望の中で死を決意し、
誰にも何も言わずに自分だけを責めて一人逝ってしまいました。
二度と帰ることのない世界に・・・
警察官だった息子は三日間何も飲まず食べず、覚悟の自死でした・・・
でもドアはカギをかけてなし・・・心のどこかで助けを求めていたのでしょう・・・
決行しても一秒でも早くドアを開けてくれたら・・・と・・・どこかで期待をしながら・・・
あわれでせつない彼の心・・・
そこまで彼を追いつめたものは何でしょう。
人間関係、言葉 言葉の暴力
するどい刃物より言葉は心を深くえぐります。
でも
人を責めず、自分を責めて責めて
”ゴメンナサイ” ”すみません” ”申し訳ないです” ”ガンバリます”と言い続け
逝ってしまいました。
”人は悪い事をしても、どうして悪いことをしたとは認めないんだろう。悪人だらけだよ!!”と
言っていた彼。
警察官という職業は合わなかったのか・・・と思うこともあります。
地域のふれあいの”おまわりさん”的な仕事はむいているようでした。
おじいちゃん、おばあちゃんが大好きで子どもが大好きで・・・
交番時代は楽しそうでした。
相談によくのっていたようでした。
死を決意し、ねむらず泣いていた日々
なくなる日・・・三日間
月曜は月が輝いて大きく、夜中に目がさめた私は
あまりの美しさに主人を起こして一緒にみてほしくて何度も声をかけて・・・
18階のマンションの窓から月をしばらくながめていました。
火曜日も又、同じように目がさめて主人に声をかけて・・・
大きく白く輝く月でした。
水曜は友人とランチをした時、肉の嫌いな私なのに、
ステーキがとても食べたくて・・・
人生で初めてステーキとハンバーグのセットを食べたのです。
夕方、その日は満月できれいな月でした。
友人と月の話しをして、”女は月をあまり見るとよくない事がおこるんだよ”
とか言われ・・・帰宅・・・
その夜の電話で息子の死
その朝七時に亡くなったと
いうことでした。
息子はお肉が大好きでした。
私を通してステーキを食べたかったのでしょうか・・・不思議です。
親バカですが・・・スポーツもでき、体力もあり、
そこそこ勉強も出来て身長も175cm体重90kg
やさしく真面目で・・・・・・
でもゲームもやり、映画も好きでたまにはパチンコもやり・・・
親思い特に私の事は大好きだったはずなのに・・・
相談もなく一言も死にたいと私たちにはもらさず逝ってしまいました。
結婚しないで独身だったら・・・
一緒に暮らしていたら・・・
もう二度と会えない彼に”かーちゃん”と言われる事もなく、
笑顔も見られない、おいしいものも食べさせられない・・・
毎日、お兄ちゃ-んとさけんでみます。
健一・・・と大きな声でさけんでいます。
一人っきりでの時
会いたくて会いたくて
名前をよぶのです。
弟もいつも、お兄ちゃんの好きなものを買って来ては仏壇に供えています。
夫も・・・私もスーパーに行くとつい彼の好物をさがしています。
夜中に目が覚めると彼の姿をさがしていて
お墓に行っても彼の姿をさがしています。
うっすらとでもいい 彼を見たいのです。
妊娠ですと言われた先生、あの場所から彼を産み---
34年の一秒一秒の想い出が頭に浮かびます。
ハイハイした日、たっちした日、入学の日
風邪ばかりひいていた彼 けんかした日
彼との34年間の想い出はこれから先ずーっと消えることなく
私の胸の内にあります。
でも 彼はもう、ここにはいない!!
弟が誕生日を迎えた日に、
”お兄ちゃんの年を自分が越えるなんて・・・!!”と・・・
もう彼が生きていた時のように笑うこともなく、
おいしいものも楽しいことも
二度とあの頃の感覚ではなくなっています。
笑っても・・・彼がいない・・・食べていても・・・彼はいない
きれいな景色をみても・・・彼はいない・・・
どこをさがしてもどんな時ももう彼は存在しないのです。
魂はあると思うけど、私には見えない・・・会いたい
自死
人間社会の最高の刑罰が死刑ですが、
死とは人間が最も怖れるものです。
”死にたくない”
不老不死の薬を望んだ昔の権力者たち、
自分の死は恐ろしいものです。
その死を
自ら決意し 自ら決行する
自決は勇気ある者として讃えられます。
なぜ自死は忌み嫌うのでしょうか・・・
あってはならない事ですが、
その決断をさせた何かがあるのであって、
何もなくおだやかに笑っていられる世の中ならば
誰が好んで死を選びましょう・・・か
誰だって生きたいのです。生きたかったのです。
自死は彼らの責任ではなく、
残された私たち社会への大きな問いかけだと思っています。
そして救える命なのです。
確実に助けられる命なのです。
私は自死遺族だけでの運営による会をやっていて
多くの参加者があり、全国たくさんの方々とのつながりをいただき、
自死予防活動にも今年から力を入れています。
一人でも一日でも長く生きてもらいたい、生きてほしい
ひらすら願い毎日24時間の受付相談をやっています。
少しでいいのです
やさしくありたい
ほんの少しの思いやりを
一人一人もてたら
社会は大きく変わります
慢を人間が感じとり謙虚になれたら
必ず世の中がかわり、それが私達も住みやすい社会なのです。
ほんの少し・・・の やさしさ
少しの想像力
私の息子は生きていました。
頑張って生きていました。
彼を誇りに思います。
悲しみが慈しみを生む-藍の会1周年記念講演から-(袴田俊英)
秋田県北の小さな町で寺を営みながら自殺予防の活動をしています。町外に出ていた檀家の人が先日、自死で亡くなり、葬式で遺族に言いました。
「体の病気で亡くなった人なら、皆、元気なころの思い出を語るでしょう。心の病気で自死した人ならできないというのはかわいそう。同じように考えよう。こんなことをしてくれたね、優しかったね、と話そうよ」。親族の人たちには別室で言いました。「いま一番悲しんでいるのは、一緒に暮らしてきた家族。傍らに寄り添ってあげよう。それが大人の振るまいではないでしょうか」
私も実は自死遺族にどんな言葉を掛けたらいいか、悩んでいました。自死の問題にかかわったのは平成五(一九九三)年から。秋田県は自死が多い。何とかできないかと念じながら、なかなか話せず、避けたいとさえ思っていた。でも、特別ではなく、ほかの原因で亡くなった人と変わらずに遺族と話せばいい。そうなれたのも、藍の会(仙台自死遺族の会)との交流から力をもらったからです。
悲しい、苦しい、つらい、というものを今、日常からなくそうとしている世の中ではないでしょうか。快適に便利に。文明がそういう方向に動いていると思えます。医療技術も、それを使命として発展してきたよう。その力の強さに、つらくなった人たちが「過剰な医療はもういい」と、ホスピスをつくってきた。
自死の問題とともに取り組んできたのが「ビハーラ」という、終末医療に宗教者としてかかわる活動です。末期の患者さんの精神的、霊的な痛みの緩和に役立ってもらえる、と医師や看護師から歓迎されたのですが、病院の経営者からは邪魔者視されました。「坊さんなど縁起でもない。病院の評判を落とす」と。
最近は変わってきた。月一回、秋田市のホスピスを訪ねたり、患者の話を聞いたりしています。そうして命の問題を仏教の視点から見詰めた時でした。「悲しみには力があるんではないか」(中略)。「痛まない、苦しまない、悲しまない」という文明の流れに逆らってみよう(中略)。
悲しみはどこから出て来るのか、それは優しい人だから。優しいから、悲しんだり、人の死を悔やんだり、苦しんだりする。でも、深い悲しみを知る人からこそ、真の慈しみは生まれるのではないでしょうか。(七月二十八日、仙台市での藍の会一周年記念講演から)
(平成十九年八月五日 河北新報より)