【「グリーフケアは要らない」という声が自死遺族にはある】 上智大学 岡知史 全国自死遺族連絡会 田中幸子(たなかさちこ) 明 英彦(あけ・ひでひこ) ************ ケアできない「悲しみ」もある ***************** 「グリーフケアは要らない」と考えている自死遺族がいる、 と聞いたら、保健師であるみなさんはどう思われるでしょうか。 「それは、たいへんだ。そういう人こそケアしなければ!」と 思われるでしょうか。 支援を拒否する「より困難なケース」を考えてしまうでしょうか。 それとも自暴自棄になって、 人生を投げ捨ててしまったような人を思い浮かべるでしょうか。 私(岡)が出会った自死遺族たちは 「グリーフケアは要らない!」と言っていましたが、 決してそのような人たちではありませんでした。 その遺族たちは、 みずからの体験を同じ体験をしてきた遺族だけで 「分かち合う」自助グループに集っていました。 その集いがあったからこそ、遺族たちは勇気をもって 「グリーフケアは要らない」と 宣言することができたのだと思います。 「グリーフケア」を拒否するには、 たいへんな勇気が必要だったことでしょう。 なぜなら「自死遺族にはグリーフケアが必要だ」と 「専門家」なら誰でも声をそろえて言うような時代なのです。 そんな時代に「専門家」ではない人々、 特に「社会的弱者」と否応なく 彼らから見なされてしまった人々が、 個人の生活においては深い悲しみを心に湛えたたま、 国や自治体のバックアップを得ていまや 大声で叫んでいるような「専門家」を前にして、 はっきりと「否(ノー)」と発言しているのです。 ************ 悲しんでいる人を憐れな人 だと思っているのか ***************** 自助グループに集う遺族たちが 「グリーフケアを拒否する」というとき、 それは「より良質のグリーフケアを 要求している」のではありません。 つまり「心のこもっていないグリーフケアは要らない」とか、 「訓練されていない人からのグリーフケアは要らない」と 言っているわけではありません。 遺族たちが「グリーフケア」を要らないと言うのは、 一つの明確な理由からです。 つまり「自分たちの悲しみはケアされようがない」と 思っているからです。 その深い悲しみは、ケアされることなどないのです。 まして、同じ体験をもたない人からは、 どんな技巧を駆使した働きかけを受けても、 その悲しみの深さには届かないと 遺族たちは考えています。 「悲しみがケアされようがないなんて、 それこそ悲しすぎる」と、あなたは思われますか。 しかし、それが真実なら人間は受け入れるしかありません。 そのあまりに重い真実をそのまま 受け入れることを決意した遺族が、 自助グループに集っています。 それだけの厳しい決意をした人々を私(岡)は敬いたい。 もしも、それでもなお 「グリーフケアは要らない」という遺族たちは 「実はケアを必要としているのだ」と 主張する「専門家」がいたら、私は問いたい。 「あなたは、悲しんでいる人を憐れだと思っているのか」と。 もしそうだとしたら、たいへん傲慢なことだと思う。 私たちのうちどれくらいの人々が、 いま遺族たちが向かい合っている真実と同じくらい 重い真実に目を向けているだろうか。 ************ 遺族は「病人」ではない ***************** 「グリーフケアの専門家」を遺族たちが嫌がる一つの理由は、 彼らが遺族たちを「ケアを必要とする病人」として扱うからです。 「病人」とは病(やまい)に苦しむ人です。 病人は「病」が一刻も早く無くなり、 「病」から回復することを望みます。 そのためには誰かの手、 特に専門的知識をもつ人の援助も求めます。 なぜなら「病」の治療法は「病人」本人よりも 医師などの専門家のほうが 良く知っている場合が多いでしょうから。 しかし、遺族の「悲しみ」は病(やまい)なのでしょうか。 愛する息子や娘が亡くなって 「悲しむ」のは人として当然のことです。 悲しまないほうが、かえって「病気」であるように思います。 五年、十年、二十年と育ててきた子どもを亡くした親が、 数年でその悲しみから回復されるでしょうか。 遺族の「悲しみ」が「病」とされるとき、 その「悲しみ」が自分の愛する家族の思い出と 一つになっているものであるにもかかわらず、 遺族は自らの「悲しみ」を捨てることを 「専門家」から強いられているように感じます (専門家はそれを「回復」と言い換えていますが、 同じようなことです)。 またその「悲しみ」が、 遺族一人ひとりにとって特別なものであるにもかかわらず、 「専門家」は、あたかもそれが自分たちにとっては すでに知っている事項であるかのように考え、 一般化し「処方箋」を与えようとします。 そのときに多用されるのが次に述べる 「悲嘆回復のプロセス論」です。 ************ 「悲嘆回復のプロセス論」は遺族の心情を否定する ***************** 「悲嘆回復のプロセス論」は、 おそらく「グリーフケア」の核になっている考え方でしょう。 少なくともグリーフケアの「対象」となっている 自死遺族からすると、そう見えるのです。 「回復させる」ことが、グリーフケアの専門家の 「腕の見せどころ」なのでしょう。 「回復させる」ことができないのなら、 治療できないということであり、 これは専門性の敗北です。 ですからそれは専門家の 沽券(こけん)にかけても認められないわけです。 「回復」を良しとする専門家にとっては、 いつまでも悲しみを湛(たた)えている人は「病的」です。 「問題」であり、「処遇困難ケース」であり、 要するに「継続することが望ましくない状態」にある人です。 「悲嘆回復のプロセス」の図を使えば、 下位の段階でとどまっている「不幸な人」 「前進しない人」とも言えるでしょう。 しかし、そのような考え方は 「私の悲しみはケアされようがない」と 考えている遺族を否定するものです。 「私が回復するのは、 息子が(娘が)生き返ったときだけだ」 と言う遺族の声があります。 その声を「病理的だ」とするのが 「悲嘆回復のプロセス論」でしょう。 なぜなら、その声は (誰もが望んでいるはずだと「専門家」が思い込んでいる) 「回復」を拒絶しているように聞こえるからです。 ************ 「愛」からの「回復」はありえない ***************** 「悲嘆回復のプロセス論」の間違いは、 遺族の「悲しみ」は、家族への愛と一体なのだという 自明の事実を軽視していることでしょう。 「愛からの回復」はありえないように、 自死遺族の悲しみからの回復もありえないのです。 「悲嘆回復のプロセス論」のなかでは「悲しみ」は、 できるだけ人間はそこから離れているべき 「悪」として描かれているようです。 なぜなら、プロセスが進むにつれて「悲しみ」が遠ざかり、 それだけ人間が幸せになるとされているからです。 これでは「悲しみ」は心を痛めつける害毒のようで、 遺族の「愛と一体である悲しみ」とは、 あまりに姿が違いすぎるのです。 「悲しみもまた私たちのもの」と、 自死遺族たちは主張します。 「悲しみ」は「専門家」やボランティアなどの 他者に治療してもらうような「病」ではなく、 また大切な自分の身体と同じように切って 取り除くようなものでもありません。 また「私の悲しみ」は「私」とともにあり、 「私」が最も良く知る者なのであり、 どんな「専門家」といえども、 「私」よりも「私の悲しみ」を知っていると言うことを 許さないということです。 「愛しい」と書いて、 「かなしい」とも「いとしい」とも読みます。 昔日の日本人は「愛(いと)しさ」と「悲しさ」が 一つのものとしてあることを 良く知っていたのではないでしょうか。 三回忌、七回忌、十三回忌と、 五十回忌まで続く日本の法事の伝統は、 死者とともに生きることを知っていた 私たちの先祖の知恵だったのかもしれません。 ************ 保健師たちに望むこと ***************** 最後に保健師たちに望むことを書いておきます。 「グリーフケア」の必要性が国をあげて叫ばれていますが、 その「グリーフケア」なるもので傷つけられている 自死遺族がいることも忘れないでいただきたい。 「グリーフケア」は精神科医などが誇示する高い専門性に依拠し、 国と自治体の承認と奨励という権威に守られて、 ボランティア的な善意で行われているという、 いかなる反論も許さない条件のもとで たいへんな圧迫感とともに与えられているのかもしれない ということを覚えていてほしい。 そうすれば、わずか数時間のセッションに参加しただけで 「悲しみが減った」という結果を数字で表現させられ、 遺族に「もう二度と来るものか」という悔し涙を流させた 「グリーフケア」がなぜ 全国各地で行われていたのかがわかるでしょう。 そして、行政の肝煎(きもい)りでつくられた「癒しの場」に、 なぜ自死遺族が集まらないのか、 来たとしてもなぜ再び足を運ぼうとしないのかが わかるはずです。 自死の予防も大切ですが、 防ぐことができなかった自死もあるはずです。 その事実の前に耐えながら生き続けている遺族たちを 「病人」扱いせず、まして「問題」とはせず、 避けられなかった重荷を負った人であるとして 敬意をもって接していただきたいと思う。 言うまでもなく、私(岡)が接した自死遺族は すべての自死遺族の姿と 重なるというわけではありません。 「グリーフケア」を積極的に求める人もいるし、 鬱などの精神症状をもち、 「病人」としての扱いが必要な人もいます。 しかし基本は同じだと思っています。 遺族の声に耳を傾け、 その意思を尊重するということが どこまでも求められるのだと思います。 月刊 地域保健 平成22年3月号 発行人 管 国典 制作・発行 (株)東京法規出版 |